麻高 應援歌・應援旗について

應援歌、應援旗いついてお話するにあたり、麻高應援團指導部の創部に至る歴史をご紹介する事で、より應援歌・應援旗の存在の意味がご理解いただけるかと思います。
應援團とは・・・(麻高の定義)
麻高の仲間を応援する全ての学生・教職員・保護者の総称です。
・應援していいただける全ての人
・應援團を指導する應援團指導部 ・應援をサポートする、
 バトン部
 ブラスバンド部
以上のメンバーの構成で成り立っています。
應援團の定義は應援團=應援部ではありません。
母校の仲間の力になれる様、應援する人達の力を結集し、應援のパワーを導く為、應援團指導部として、應援のリードをする存在です。
苦しい時こそ應援が必要で有り、苦しい局面からプラスに転じる精神力は、自らを律し、常日頃の厳しい練習を重ね事により生まれる。
そうした練習から、活躍する選手との連帯感が生まれ、應援團の真のエールを届ける事ができると信じています。
「麻高を愛し、自らが模範生であれ」が應援團指導部の教えです。


應援大團旗

念願の團旗を初じめて掲げる!

應援團指導部の沿革

應援團の歴史は、昭和59年に野球部が初めて全校高校野球大会神奈川予選大会に参加する際、佐藤孝夫(1期生)生徒会長が呼びかけ有志による應援團が組織されました。 球場での應援は、中学時代の應援経験者が教ええる程度の應援技術で、他校との團同士の決まり事も分からず、強豪高校の應援に只々圧倒されるばかりでした。 その悔しさから翌年から、2代目團長に就任した高橋氏(1期生)が本格的に應援團員を集め3年生~1年生で構成される、應援團の基礎が出来上がりました。 その後、3代目團長福島氏(2期生)時代に同好会に昇格し監督として高橋氏が就き應援技術の向上を目指し六大学の應援を勉強する為に神宮球場へ通いつめ、六大学の應援スタイルのを取り入れ技術の向上を目指しました。 当時は、部費もなく應援團旗も團員の証、腕章すら揃える事ができませんでした。 他校の應援團旗を見るたび、羨ましく思い憧れる日々でした。 麻高の應援團旗を旗めかせたたいとの強い思いが、團OBに呼びかけ、購入資金づくりのため、カンパを募りました。最初に購入したのが大太鼓と團バッジでした。大太鼓には、当時の伊藤先生にお願いして、筆で麻高應援團の名前と魂の文字を書いて頂きました。 福島氏から4代目森崎氏に引き継れた頃には、團OBから資金も少しづつ集まり、ついに憧れの應援團旗一式と腕章、應援用の小旗を揃える事ができ、ようやく伝統校に負けない様な應援團となりました。 そして應援には無くてはならないもう一つのアイテム「應援歌」があります。 是が非でも麻高のオリジナル應援歌を作りたいと念願し、團活動開始3年目の夏大会に間に合わせ様と、当時の吹奏楽の部長大西氏(1期生)に作曲を依頼しましたが、吹奏楽部も夏のコンクルールに合わせてそれどころでは無い時期でしたので、最初は断られましたが、諦めずお願いを続け。ついに作曲の承諾をいただき、第一應援歌「讃えんかな麻高」が出来上がりました。それに加え応援曲のアレンジ等多大な協力を頂きました。コンクール直前の忙しい中、球場までブラスバンドの応援をいただいた事を心より感謝した次第です! これでブラバンの應援と團の呼びかけに多くの麻高生が集まり應援も百人力となり、強豪校にも引けを取らない麻高独自の應援スタイルと歓声、麻高の校歌が球場に響、麻高生の誇らしき姿に感動を覚えました。その素晴らしい應援は県下でもその名を知らしめる事となり、麻高伝統の應援團がここに誕生いたしました。 下向きな活動の実績が認められ、5代目高野氏が団長時代に応援團指導部として部に昇格し、以後神奈川県下でも稀な正式な部活動として、その伝統を歩みはじめました。 この時期になると第二応援歌「若草は燃えて」や第三応援歌「陽はまた昇る」「THE麻高」「Let's go ASAKO」など次々とオリジナルの応援歌、応援曲がデビューいたしました。 ちなみに、3年目の頃には女子バトン部出来き応援に参加し、應援團指導部、バトン部、吹奏楽部と共に応援をリードする、麻高應援團が完成いたしました。 そから活動は続きますが、時代背景も有り、部員の確保を難しく少数精鋭で粛々と活動を続けてきましたが、ついに部員数が減少し27期生が最後團員として卒業後、部員ゼロとなり、現在は休部となっています。 野球の応援に関しては、野球部の部員や有志が中心にバトン部、ブラスバンド部による応援は現在も続いています。また入学式では、校歌斉唱の際野球部部員がステージ上で應援スタイルによる歌唱指揮を行っていています。
 




應援曲

「THE 麻高」

チャンスが到来!ブラスバンドの軽快なマーチのリズム乗せて、ASAKO麻高!の掛け声を飛び道具として應援團のリーダーの拳が炸裂します!

應援曲

「Let's GO! 麻高」

ブラスのフンファーレが鳴り響!いよいよチャンス到来を告げます!ファンファーレから、他の応援曲へメドレーとして繋いで行きます。

應援曲

「チャンスだ麻高!」

法政大学の応援曲をアレンジさせて頂き使用させていただいています。スタンドが一丸となってチャンスを演出することのできる男らしい應援曲です。

当時のバトン部の歌詞カードです!


応援團團旗について

応援團團旗は、応援團の魂としての存在です!まだ団旗がなく、眺旗用の校旗しか無い時代にどれほど、團員が応援團のシンボル大団旗を掲げたかったか!
その強い思いから、卒業後1期生2期生の応援團OBが、それぞれにアルバイトに励み、当時一人あたり1万円〜程度の寄付を募り、念願の団旗を寄贈する事ができました。、真新しい大きく立派な団旗を初めて学校の中庭で掲揚し、風になびく團旗の姿が感動的でした。 球場のはためく大団旗は、麻高の応援のシンボルとして、今尚その重厚な存在に感銘を受けます。
 


 

創部3年目夏の大会

追浜球場にて中央農工戦、学校から遠くの球場にも関わらず、多くの麻高生が集結いたしました。
 

対県相戦 エールの交歓

県相VS麻高の対抗戦のエールの交換です。定期戦を両校の部活間で行っていました。
 

昭和51年 対 藤商戦

野球部創部3年目の夏大会、対藤沢商業戦当時第一シードの藤商を最後まで苦しめたが善戦も最後に力尽き敗戦する。この時を界に応援團は本格的に始動し3年後には部に昇格を果たし県下にも麻高応援團の名前を広める事になる。球場は現在の横浜スタジアムの前身の平和球場です。

昭和53年壮行会から!

麻高オリジナル演舞台

夏県予選開会式!

風格が出てきた初代應援大團旗

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